
人的資本経営とは、「社員を電池扱いしない」という決意
人的資本経営は「制度」ではなく「土壌」の話
「人的資本経営」という言葉を聞いて、また新しい人事評価制度や、流行りの研修を取り入れなきゃいけないのか……と溜息をついていませんか?
実は、それは大きな誤解です。この言葉の本質は、もっと泥臭く、人間臭いものです。 これまでの経営が、社員を「乾いたら交換すればいい電池(コスト)」として見ていたとしたら、人的資本経営は、社員を「水をやり、肥料をやれば太く育ち、果実を実らせる樹木(資産)」として見る、という「眼差しの転換」なのです。
地方の中小企業を見てください。現場を回しているのは、機械の癖を知り尽くしたベテランや、あうんの呼吸で動くチームワークではありませんか? その「人」こそが御社の競争力の源泉です。 MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)とは、その樹木を育てるための「土壌」であり、「どんな森を作りたいか」という設計図です。
制度という「道具」を買い揃える前に、まずは「人をどう育てるか」という「思想」がなければ、どんな高価な道具も宝の持ち腐れになってしまいます。
「うちはアットホームだから」の落とし穴
地方企業でよく耳にする「うちは昔から人を大事にしているから大丈夫」という言葉。これには少し注意が必要です。 社長の頭の中にある「大事にする」と、社員が求めている「大事にされる」がズレていることが往々にしてあるからです。
例えば、「大事にする=家族のように飲みニケーションをすること」と思っている社長と、「大事にする=公平に評価し、休みをしっかり取らせること」と考える若手社員。このズレを放置したままでは、「社長の善意」が「社員の迷惑」になりかねません。これはボタンの掛け違いです。
MVVを策定するとは、この「大事にする」という言葉の定義を合わせる作業です。「ウチの会社にとっての『人を大切にする』とは、こういうことだ」と明文化する。それが共通言語となり、初めて組織全体に血が通い始めるのです。
MVVは「判断のモノサシ」
MVVがある会社とない会社の差は、迷った時に出ます。例えば、利益は出るけれど社員に過度な負担がかかる仕事が舞い込んだ時。MVVがある会社は、「我々のミッション(使命)に照らし合わせて、この仕事は受けるべきか?」と、全員が同じモノサシで判断できます。
一方、MVVがない会社は、その場の雰囲気や、「社長の機嫌」で決まります。 その場しのぎの判断は、積み重なると「言っていることとやっていることが違う」という不信感に変わります。
MVVは、経営判断という航海において、嵐の中でもブレずに進むための「羅針盤」なのです。
札束の殴り合いからは降りる
「旗」を立てて人を集める給与という「スペック」だけで勝負していませんか?
地方の人材不足は、もはや災害レベルです。ここで絶対にやってはいけないのが、大企業や都市部の企業と同じ土俵で「給与や待遇」だけの勝負を挑むことです。これは、軽トラックがF1カーにスピード勝負を挑むようなもの。体力のある大手に、資金力(スペック)で勝とうとするのは得策ではありません。 では、どうするか。スペックではなく、「ストーリー」で選ばれる必要があります。
「給料は東京より安いかもしれない。でも、ウチにはこんな志があり、こんな面白い未来(ビジョン)を作ろうとしている」。この「旗」を高く掲げ、それに共感してくれる人を集めるのがMVVを軸にした理念経営です。
MVVとは、その高く掲げる「旗」そのものです。
若手は「何をするか」より「誰と、どこへ向かうか」を見ている
今の若い世代は、非常にシビアに企業を見ています。彼らは「この船に乗って、自分はどこに連れて行ってもらえるのか?」「船長(社長)はどんな想いで舵を取っているのか?」を見ています。 「とりあえず乗れば食わせてやる」という昭和的な誘い文句は通用しません。
「私たちは、地方から世界を変えるこの技術を磨いている」「この地域の課題をこうやって解決しようとしている」——そんな明確なビジョン(行き先)とミッション(目的)が語れる会社は、地方であっても若手にとって「冒険の舞台」として魅力的に映ります。
採用は「結婚」、定着は「生活」
採用できたとしても、すぐに辞められては意味がありません。早期離職の最大の原因は「思っていたのと違った」というミスマッチ、いわば「性格の不一致」です。 MVVを明確にするということは、お見合いの段階で「ウチはこういう頑固な親父ですが、情には厚いですよ」と、自社の性格(価値観)を包み隠さず伝えることと同じです。最初から価値観(バリュー)に共感して入社した社員は、少々の困難があっても辞めません。
MVVは、採用のミスマッチを防ぎ、長く共に歩む仲間を見つけるための「最良のフィルター」でもあるのです。
AIという「最強のエンジン」を乗りこなすハンドルを持つ
AIは「優秀な包丁」。料理を決めるのは人間 AIの進化は凄まじいものがあります。しかし、恐れる必要はありません。AIはあくまで「道具」です。 例えるなら、AIは「どんな食材でも一瞬で切れる超高性能な包丁」です。しかし、その包丁は「今夜、何を作ればお客さんが喜ぶか」を決めることはできません。
「誰のために、どんな料理(価値)を提供するのか」。このメニューを決めるのが人間の役割であり、企業のMVVです。 地方の中小企業が持つ「顧客への細やかな配慮」や「義理人情」、「地域への愛着」。これらはAIが最も苦手とする領域です。
MVVによって「ウチらしさ」というレシピを明確にしておけば、AIはそのレシピを実現するための強力な調理器具になります。
判断をAI任せにすると、会社は「無機質な箱」になる
今後、経営の効率化はAIが助けてくれるでしょう。しかし、「効率的だから」という理由だけですべてを決めてしまえば、あなたの会社はどこにでもある「無機質な箱」になってしまいます。
「AIの計算ではこっちが得だが、ウチの理念(バリュー)に照らせば、泥臭くてもこっちを選ぶ」。 そんな「非合理な人間らしさ」こそが、これからの時代のブランドになります。
MVVは、AIという強力なエンジンの暴走を防ぎ、自社らしい方向へ導くための「ハンドル」なのです。
「戦略(MVV)」なき「戦術」は、穴の空いたバケツと同じ
カッコいいWebサイトを作る前に、やるべきこと
ここが、多くの地方企業が陥りがちな最大の罠です。
「ブランディングをしよう」と思い立ち、いきなりカッコいいWebサイトを作ったり、流行りの動画広告を打ったり、SNSを始めたりしていませんか? はっきり申し上げます。
中身(MVV)が固まっていないのに、外見(広告・Web)だけ整えるのは、基礎工事をせずに家を建てるようなものです。 あるいは、体調が悪いのに厚化粧で隠そうとするようなものです。
「何のために戦うのか(MVV)」という戦略がないまま、テレビCMや動画、Webという武器(戦術)を振り回しても、現場は混乱するだけです。 「TVCMでは『挑戦する会社』と言っているのに、現場の上司は『前例がないからダメだ』と言う」。「Webサイトには『顧客第一主義』と書いているのに、実際は現場の都合で業務が回っている」。これでは、顧客も求職者も「嘘つきだ」と感じて離れていきます。
一貫性がない情報発信は「雑音」になる
ブランディングとは、単に有名になることではありません。「あの会社といえば、こういう会社だよね」という信頼を積み上げることです。そのためには、社長の言葉、営業マンの態度、テレビCMから想起されるイメージ、Webサイトのデザイン、採用のメッセージ、そのすべてが「金太郎飴」のように、どこを切っても同じ味がする必要があります。その「味の素」となるのがMVVです。MVVという核がないままバラバラに発信される情報は、顧客にとってはメッセージではなくただの「雑音」です。
逆に、MVVがしっかりしていれば、派手な広告を打たなくても、日々の社員の振る舞いや、地道な地域活動の一つひとつが、強力なブランドメッセージとなって伝わっていきます。
地方企業こそ、本物のブランドになれる
全国区の大企業のような派手さは必要ありません。「この地域で、何のために商売をしているのか」。その想いをMVVとして言葉にし、嘘偽りなく伝え続けること。 それこそが、地方企業が目指すべき「本物のブランディング」です。
あなたの会社の「背骨」は通っていますか?
人的資本経営、人手不足、AIの台頭。 これら時代の変化はすべて、「で、あなたの会社は何を大切にしているの?」ということを問いかけてきています。
今、社長ご自身に問いかけてみてください。
- 社員を「部品」ではなく「パートナー」として招き入れる準備はできていますか?
- 「給料」以外に、若者が人生を賭けたくなるような「夢」を語れますか?
- TVCMを打ったり、Webサイトや動画を作る前に、その中心に据えるべき「不動の魂」は定まっていますか?
MVVは、社長室の額縁に飾るための飾り文句ではありません。変化の激しい時代に、会社という生命体が生き残るための「背骨」であり、社員と心を一つにするための「合言葉」です。
地方だからこそ、中小企業だからこそ、トップの想いがダイレクトに伝わる強みがあります。 まずは、その想いを言葉にすることから始めませんか。そこから、御社の新しい時代が始まります。